8月8日(水) 『平和学習』戦争体験者を囲んで

8/8(水) アステ川西市民プラザ において
伊丹ユネスコ協会会長 庄司幸子氏に戦争体験をお話いただきました。

8月4日(金) 『平和学習』戦争体験者を囲んで

2017年8月4日(金)アステ川西市民プラザ 10:00~12:00
平和について、考えさせられた1日でした。「平和は作り上げるもの。」と言う言葉にハッとさせられました。



8月2日 平和学習会 「戦争体験者のお話を聞く」

2016年8月2日 アステ川西市民プラザにおいて、川西文章教室有志の方による戦争体験のお話を聞きました。

命令と号令の学徒動員     相澤 トミ子氏
うばわれた小さな命      植田 康子氏
報道されなかった大地震    香月 恵美子氏
野坂昭如先生との対話     海堀 民子氏
空襲におびえた昭和20年     竹田 ムツ子氏
ペン字の跡が語ったこと    中野 洋子氏
姫路城外の別れ        長谷 登氏
終戦のあとさき          安井 弘子氏


川西ユネスコ協会理事の戦争体験のお話を紹介させていただきます。

「義母との思い出」
炎暑続きの八月は、広島、長崎の原爆投下の日々、終戦記念日とつらく悲しい日々が重く続いた。そしてやっと九月、残暑の中にも秋の気配を感じられる。そして色んな作物の実り秋にもりました。
 此の頃になりますと何故か遠い昔亡くなった主人の母を思い出します。義母とは15年程いっしょに暮らしました。最後の4年間はほとんど寝たきりの状態でした。
心臓病、高血圧、糖尿病と色んな病気を持ちながら主人が医師であるため、入院することなく我が家で78歳の生涯を終えました。
最後まで意識はしっかりしていて私が食事を運んで部屋にはいり、おかゆを口に運びますと「ありがたいことです。真白のおかゆがいただけるなんて」とその都度申します。
そして戦中戦後のつらかった食糧事情をぽつりぽつりと話します。戦後は軍隊から帰ってきた主人と弟を加え、8人の息子と1人の娘、中学から引き取った両親のいないお手伝いのマチさん計12人の大世帯を抱えての食生活は想像を絶する大変な苦労があったようです。
 庭全体が畑になり、色んなものを作ったそうです。特に主食代わりのさつま芋などは祈るような気持ちで収穫を待ったとの事。時節到来と息子達が期待を込めての鍬入れ、しかし手応えは無く、引っ張った蔓の先はどれも犬の尻尾ほどの細いさつま芋がぶら下がっていたそうです。「結局土壌も栄養失調でくたびれていて実りの少ない、秋だったのよ。」それでも葉と蔓を茹で、細いさつま芋と一緒に炊いて食べたの。」主食とおかずをよそう時には秤にかけて公平に、たまにいただく芋ようかんもものさしで分け、皆で食べたの」。と男性的で厳しい義母だったけれど、子ども達全員が親孝行だったのもよくわかる立派なおかあさんだった、と改めて思う昨今です。

安井弘子 ーユネスコ通信第46号よりー


「戦争の思い出」
米軍による日本本土爆撃が多くなったころ、私は、小学校(当時の国民学校初等科) 4年生であった。住んでいたところは、大阪市から少し離れた郊外の街で、疎開してくる人が多く、転校生も多かった。そのころ、母方の祖母や叔母たちが、大阪市内から疎開してきて、私たち家族と一緒に住んでいた。まもなく、毎夜のように米軍機が飛んできて、私たちの街にも爆弾や焼夷弾が落とされるようになり、夜中に着替えて防空壕に避難する日々となった。
そのうち、大阪市内が大空襲に遭い、壊滅状態になった。大阪方面の空が真っ赤になり、飛行機がたくさん飛んでいる様子がよく見えた。数日たって、祖母たちの家がどうなっているか、見に行くことになり、私も参加した。阪急梅田駅から外に出て、私の目に映ったのは、一面の焼け野原であった。ふと遠くに目をやると、大阪城が見えた。「天守閣が残っている」と嬉しかったことは今も記憶している。焼け焦げた匂いが立ち込めている道をひたすら歩いた。家は残っていた。嬉しいというより戸惑いが広がった。家に入ると、焼け出された、知らない人びとでいっぱいだった。それは、もう、小さい時から慣れ親しんだ家ではなかった。私は、その後、その家を二度と見ていない。祖母たちは、もう大阪の家に帰ることをあきらめたのだ。
祖母たちは、私たちの家の近くに住むことを望んだが、このあたりも空襲で壊れた家が少なくなく、とても見つけられなかった。そんな時、京都市内の親類から、家が空いているから住んでほしいと頼んできた。私たちは、今住んでいるところより安全だろうと考え、祖母や叔母と共に、私と妹は、親から離れて京都市内に住むことになった。戦争はこうやって家族を引き裂いていくのだ。
終戦の日は、京都で迎えた。近所の人から連絡が入り、みんなで近くのラジオ屋さんに行った。大勢の人が集まり、玉音放送が始まったが、私が全然理解できないでいると、人々が泣き出し、ますますわけがわからなくなった。叔母がそっと、「戦争が終わったのよ。」と教えてくれた。それを聞き、母たちと会えるのだろうかと不安になった。
学校が始まると連絡を受け、やっと母のいる家に戻った。学校の運動場は、私たちが以前に作った畑がそのまま残っていているので、遊べなかった。校舎も、防空迷彩を施すため、私たちが屋上から墨を流して真っ黒にしたままだった。友人たちと再会できたことが本当に嬉しかった。父がまもなく復員した。その時流した涙はどれくらいだろう。ぬぐってもぬぐってもあふれてきて止まらなかった。戦後の混乱は続いたものの、やっと平和な時代を迎えた。再び戦争に巻き込まれないよう、記憶を語り継いでいきたいという思いが強くなる昨今である。

上杉 光代 ーユネスコ通信第46号よりー